世界映画紀行 - World Express Vol.18

民族のたこつぼの中心で愛を叫ぶ

転換期を迎えつつあるマレーシア映画

Malaysian New Wave Film "SEPET"

Report of Malaysian Films

文と写真:大谷 雅憲

Text & Photo by Masannori Otani

(2003/09/05)

 


当サイトでは、今回ひょんな事から知る事になったマレーシア在住のブロガーである大谷雅憲さんに、昨今のマレーシア映画事情について寄稿をお願いしました。すると、実に興味深いマレーシア映画ニューウェーブの話が飛び出すではありませんか。これはひょっとしたら近いうちにお目にかかるかもしれない、新しいアジア映画に関する先取り情報です。


普段は見向きもしないマレー映画ではあるが

 映画館主F氏より私のブログにコメントが入った。マレーシアの映画事情について何か書けという内容。はっきり言って人選ミスである。私がマレーシアの映画館で映画を観たのは、4年以上も前のこと。しかも、中国系マレーシア人の生徒に日本語の会話を聞かせるという、きわめて実用的な理由で邦画「ラブレター」を観たのだった。そういうわけで、マレーシア映画の紹介者としては、はなはだ不適任でございますが、一切の責任は、映画館主F氏に転嫁させていただきます。

 

 他人に責任を押しつけてしまえば、足どりも軽くなるというもので、さっそくマレーシアの首都クアラルンプールの郊外にあるショッピング・コンプレックスに向かった。

 このショッピング・コンプレックスはメガモールといい、ジャスコが入っているので、日本人にも人気がある。ここに、ゴールデンスクリーンシネマというシネマ・コンプレックスが入っている。スクリーン数18というのは大きいのか小さいのか? ここでの私の目的は、事前にインターネットでチェックした「世界の中心で愛を叫ぶ」をマレーシアで観てやろうじゃないかと、いささかやけくそ気味の自爆企画であった。

 そのことを映画館主F氏にメールしたら、「そんな見たくもない『世界の中心』を無理に見なくてもいいですよ〜(汗)。」という優しいお言葉。だが、その後に続けて、「そちらでのリアクションとか、どんな人が見てるのか、見た人はどう思っているのかは興味しんしんですねぇ。」と、じわりじわりと懐柔してくる。さらに、「いろいろな国のホラー映画や怪獣映画とかは面白そうな気がします。個人的にも興味ありますねぇ。」などと遠慮がちに見せかけて、どんどんリクエストをエスカレートさせてくる。語尾の「ねぇ」が曲者である。見知らぬ相手に優しく声をかけながら、この「ねぇ」によって相手の息の根を止めてきたのだろう。恐るべし、映画館主F。

 

 「世界の中心〜」を探すが、どうも上映していないようだった。ポスターが出ているのは、インド映画とマレー映画と、とっても大好き、ドラエ〜モン!。他にも香港映画やハリウッド映画(タイトルはチェックし忘れた)などがあったが、当初の標的は見つからず、今日のところは、映画館での鑑賞は諦めた。どうやら曜日によって上映している作品が異なるらしい。

 

 徒手空拳で帰るのは癪なので、VCD屋に行って普段は見向きもしないマレー映画のコーナーをのぞいてみた。マレー語はほとんどわからないしマレー映画の情報もないので、パッケージの写真からイメージして買うしかない。ホラーぽいのと国内外の映画コンペに出品して賞をとっているものと、2つ購入した。後者のタイトルは「SEPET(セペッ)」という。これが大当たりだった。

 

なぜマレーシア映画は盛り上がらなかったのか

 マレーシア映画はつまらない。残念ながらそれが正直な感想だ。これはマレーシア人も認めている。理由はいくつか考えられるが、マレーシアの民族構成と使用言語という二つの要因を見逃すわけにはいかない。「マレーシア映画」を理解していただくために、少し長くなるが、おつき合いを願います。

 

 マレーシアは、マレー系・中国系・インド系を中心とした複合民族国家だ。各民族が、自分たちの宗教や文化・言語の独自性を保ちながら、他の民族と共生している。

 この国で使われている言語をもとに考えてみよう。マレーシアの国語はマレー語だ。だが、イギリスの植民地だった影響から、ビジネスの世界では英語が使われることが多い。中国系になると、母語の他に都市によって支配的な言語(クアラルンプールは広東語、マラッカは福建語というように)を覚えないといけない。インド人は主にタミール語かヒンディ語を使う。

 これがどのような現実を生み出すのか。たとえば中国系の私の友人の場合、母語は客家語であるが、ホームタウンでは福建語が主に使われていた。学校はマレー語とマンダリンで教わり、クアラルンプールに出てきて広東語と英語を使って仕事をしている。おまけに日本語まで勉強して日常会話には困らない。会話レベルで7カ国語、読み書きレベルでも3カ国語をこなしている。

 同じ中国系同士でも、出身言語が異なれば英語を使った会話になるし、同じ相手と話していても、話す内容によって、英語、広東語、マレー語と移り変わっていく。めくるめくような言語変換が行われるのが、マレーシアの面白いところだ。

 

 こういう環境では独自のマレーシア文化が育ちにくいという面も否定できない。マレーシアの総人口は、約2,558万人で、人口比率はマレー系(65.5%)、中国系(約25.6%)、インド系(約7.5%)、その他(1.3%)。映画を観る場合でも、出身言語の映画を好んでみる傾向がある。中国系は香港映画、インド系はボリウッド(ハリウッド映画の向こうを張って、ボンベイで作られる映画のことをこう呼ぶ)というように。そして、マレーシア人が共通して観るのはハリウッド映画。世界3大映画製作圏が、彼らの母語もしくは字幕なしで理解可能な言語で作られた映画ということになる。他民族の映画はほとんど観ないので、マレーシア映画は、マレー人を対象にした小さなマーケットで映画を作ってきた。

 かつて、P・ラムリーという、脚本・監督・主演・作曲・歌を一人でこなす国民的なヒーローがいて、そのときには、民族の壁を超えた「マレーシア映画」が実現したこともあった。しかし、私の知る限り、P・ラムリー以降は、それぞれの民族のたこつぼに閉じ籠もり、国内映画市場はどんどん狭くなってしまった。そうしたマレーシア映画界に新風を送ったのが、「セペッ」だ。

 

マレーシア映画ニューウェーブ「セペッ」

 「セペッ」とは、マレー語で「切れ長の目」を意味する。中国系の目の特徴を表した言葉だ。この映画は、7月に開催された第18回マレーシアン・フィルム・フェスティバルで、最優秀作品賞、主演男優賞、主演女優賞など6つの賞を受賞した。ヤスミン監督は、日系新聞の取材に対し、「シンプルなストーリーラインを持ち、従来のマレーシアのメインストリームからかけ離れたこの作品が受賞したことは、これまでならあり得なかったこと。自分自身にとっても、またこの映画祭にとっても希望が持てる出来事で、本当に嬉しい」と語っている。(日馬プレス2005.8.1号)

 

 この映画は、従来のマレー映画の枠組みを超えた要素を多く含み持っている。ストーリーはシンプルな青春恋愛物だ。だが、マレー系の女性と中国系の男性との恋愛という設定は、あってもおかしくはないのに、誰も手がけることはなかった。民族の棲み分けがはっきりしているこの国で、民族や宗教の壁を超えた愛というのは、現実にはあっても映画のテーマとして扱うことには抵抗あるタブーだったのかもしれない。

 冒頭のシーンでは、トゥドン(イスラムの女性が被るスカーフ)を被ったマレー系の少女が、家の中でコーランを詠みながらお祈りをしている。少女のお祈りが終わってタンスの扉を開けると、タンスの中には一面、金城武のポスターや雑誌の切り抜きが貼ってある。

 このシーンは予想外の衝撃だった。少女は、中国映画が好きで、なかでも金城武の大ファンだったのだ。そして、オープニング・タイトルのバックで中国語の歌謡ポップスが流れる。金城武も中国歌謡も映画における飾りではないことがわかる。この監督は本気で「マレーシア映画」の枠組みを作ろうとしている。

 この冒頭のシーンで、私はこの映画はマレーシア都市部に住む若い世代の支持を得るだろうと確信した。他の東南アジアの国々と同様に、日本のテレビドラマに人気が出たのは、香港映画やインド映画が基本的に男性の観客が好む映画、男優、女優をイメージして作られており、女性が感情移入できなかったことが背景にあると僕は見ている。キムタクが中国系の諸地域で絶大な人気を博したのは、女性の好む男性、女性の好むストーリーがそこにあったからだ。F4などはそのバリエーションの一つにすぎない。そして、女性のこのむ男性イメージ、しかもハリウッドよりも顔もファッションも身近に感じられる日本の男優や女優に人気が出て、それが中国系の住民が多く住むインドネシアやタイ・マレーシアの非中国系の若者にまで広がっていった。クアラルンプールのVCD屋の日本のTVドラマコーナーには、伝統的なイスラムのスカーフを被った女の子たちが「キムタク」とか「タケシ・カネシロ」とか、ちょっと恥ずかしそうに、でもすごくうれしそうに作品を選んでいる風景を日常的に目にする。主人公のオッケーもそうした普通のマレー人少女だ。

 オッケーは友だちと屋台の並ぶ市場に金城武のVCDを買いに行く、市場で海賊版のVCDを売っているのが、中国系のジェイソン。海賊版VCDは中国系マフィアの資金源になっていて、定職についていない中国系の若者を使って商売をしている。ジェイソンはギャングの一味ではないが、そうやって生活をしている中国系の底辺の若者の一人だ。

 

 ジェイソンの生い立ちは複雑だ。始めはマレー人の女性のところに下宿しているのかと思っていた。なぜなら、女性はマレー語、ジェイソンは広東語で会話をしていたからだ。この女性はニョニャで、ジェイソンの母親だとわかるまでにしばらく時間がかかった。ニョニャというのは、中国系とマレー系とのハーフのこと。多くは土着化した中国系の子孫だ。ニョニャの母親と中国系の父親の間に生まれたのがジェイソンで、彼は母親のことを深く愛しているので、マレー人に対する偏見を持っていない。相手の言っていることは理解しているが、自分が話すには母親はマレー語のほうがジェイソンには広東語のほうが話しやすいので、先に書いた変わった会話の光景が生まれる。

 この映画の隠れた主人公は「言語」だ。マレー語、広東語、英語が混線する。マレーシアのことを知らない外国人が見ると、この国の人は分裂しているのではないか思うだろう。相手によって言語を変えていくのは当たり前、同じ相手、同じ場面であっても、英語からマレー語へそして広東語へと言語が変換されていく。なぜ? どういう理由で? というのは私などにもわからない。彼らもおそらく自覚してはいない。何度かマレーシア人の友人に質問してみたら、本人たちも「そうだっけ?」と不思議がっていたほどだから。そうしたマレーシアの言語感覚をたっぷりと楽しめる映画だ。ちなみに、この映画には英語の字幕がついている。これも、マレー人だけを観客対象にしたのではなく、「マレーシア人」というより大きなカテゴリーを監督は意識し作ったからだろう。

 

 もちろん民族の違いによる問題もある。マレーシアの国教はイスラム教だ。イスラム教徒と結婚するときには、男であれ女であれ非イスラム教徒はイスラム教に入信しなければならない。逆は存在しない。つまり、ジェイソンとオッケーがもし結婚するとすれば、ジェイソンはイスラム教に入信し、割礼を受け、名前もイスラム式の名前に変えなければならない。中国人にとって名前は、先祖からのつながりを示すきわめて重要なものだ。しかも、イスラム教で禁止されている豚肉は中国人にとっては祭礼のときにもかかせない生き物。ジェイソンの親友は「名前も宗教もかえなければならない。それにブタも食べられないんだぞ!」といって、彼女との恋愛がこれ以上進展することをあきらめさせようとする。

 

賛否両論が物語るマレーシア映画の転換期

 「セペッ」の内容について触れるのは、これぐらいにしておく。

 マレーシアが、各民族の壁を超えて、「マレーシア映画」を作る試みは、この映画ではじめて(かどうかはわからないが)成功したと思う。マレーシアの今を映像としてとらえ、それをファンタジーにまで高めることができたこと(ディテールがいい加減なファンタジーなど私は認めない)。パッとしない主演の二人がどんどん魅力的に見えてくること(個人的には映画を観る大切な要素)。映画にリズムがあること(説明過剰、グダグダネチネチ、一人よがりなのは嫌い)。この三つをクリアしたという点だけでもこの映画を観てよかったと思う。

 

 「セペッ」はマレーシア国内ではどう評価されたか。国内だけでなく欧米でもコンペに参加して受賞しているところからみると、プロには評価されている。さらに、マレーシア人のブログをチェック(英語で書かれたもののみ)しても同世代の女性を中心に共感を得ていることがわかる。だが、逆に本来のマレー映画の文脈を超えてしまったこの映画に対して、かなり反発と嫌がらせがあったようだ。日系新聞からの記事にはその様子を、このように紹介している。

 「映画『セペッ』で数々の賞を受賞しているヤスミン・アーマッド監督は、クアラルンプールで9月28日開催される第50回アジア太平洋映画祭に同作を出品しない意向を明らかにしている。先日開催された第18回マレーシアン・フィルム・フェスティバルで最優秀作品賞を受賞したことにより、数々の誹謗中傷を受けたことに失望しているのが理由。映画のメッセージとは関係なく、憎しみや怒りを含む様々な反応があったという。同監督は『もう二度と国内の映画祭には参加しないのか』という質問に対し、『国内での論争は私をおびえさせ、悲しくさせるだけだった』と悲観的な見方を示した。」(日馬プレス2005、8、16)

 どのような誹謗中傷を受けたのか、記事からではわからないので、あくまで推測の域を出ないが、マジョリティであるマレー系の女性がマイノリティである中国系の男性を好きになったという設定をマレー系の女性監督が製作したという点にマレー系の男性が反発したのではないだろうか。男がマレー系、女が中国系であればもう少し余裕のある反応があったのではないかと思う。あるいは、そもそもマレー系の作る映画の主題歌が中国語であったり映画の中で広東語が話されること自体に拒否反応を示すのか。

 

 いずれにしても、これだけの賛否が分れるということは、従来のマレーシア映画の文脈とは違う映画が出現したことを意味している。映画館主Fさんのせいで、じゃなくて、おかげで、マレーシア映画の転換期にあたるかもしれない映画に触れることができた。今後マレーシア映画がどのような方向に向かうのか、しばらくつき合ってみようと思う。

 


 マラヤ通信

 http://blogs.yahoo.co.jp/otiani

 マレーシア在住の塾教師・大谷さんが海外在住子女の作文を交えて語る異文化体験を綴ったブログです。

 

 

 

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