私が子供だったころ

 When I Was a Little Child...

 


 

ハーメルンの笛吹き

A Piper of Hameln

 

 

 正確にいつの頃だったのかは忘れたけれど、小学校の中学年か高学年の時に、僕は学芸会で「ハーメルンの笛吹き」の芝居をやった。

 やったといっても演出や脚本などに手を出したわけではない。そんなことを僕がするようになるのは、中学3年の頃からだ。小学生ではとてもとても。そのあたりは先生たちが用意してくれていたんだろう。もちろん当時は僕はミソッカスの子だったから、主役なんぞに声がかかるわけもない。単に脇役もいいとこの「町の男2」とかいうのに配役されて、たったひとつのセリフを言わされただけだ。

 ところでこの「ハーメルンの笛吹き」、どんな話かみなさんはお分かりかと思うが、念のため、簡単にあらすじをここに書いておこう。なぁに、グリム童話になったくらいで、大して難しい話じゃない。

 昔むかしハーメルンという町では、ネズミの大発生に苦しめられていた。そんな町に奇妙な出で立ちをした笛吹き男がやってくる。この男は、町の人々に笛の力でネズミ退治をすると提案。それが可能ならば…と町の人々も、笛吹き男に高額の報酬を払う約束をした。

 すると男は笛を吹き始め、笛の音におびき出されたネズミたちがゾロゾロと表に出てきた。男は笛の音でネズミたちを誘導し、一匹残らず川の中に自ら飛び込ませてしまったのだ。

 ところが事がうまく運んでみると、町の人々は笛吹き男に報酬を払うのが惜しくなった。何だかんだと言って踏み倒したあげく、男を町から追っ払ってしまったのだった。

 ところが、これで物事が済むわけはない。しばらくして、笛吹き男は町に戻ってきた。そしてまたしても笛を吹き始めると、今度は町の子供たちがそれに誘われて出てくるではないか。結局、笛吹き男は笛の音で町の子供たち全部を連れ出し、洞窟の奥へと消えてそのまま戻らなかった…。

 この話が実は疫病の大流行を元ネタにしていたとか、実は集団移民のメタファーだとかって話は、ここではまったく関係ないので割愛。ともかくこんなような、一種の教訓話だったと思っている。

 そんな「ハーメルンの笛吹き」の芝居での僕の「見せ場」は、ネズミ退治が済んだ段階で町の人間が報酬を払いたくなくなったくだり。笛吹き男に難癖をつけたあげく、町から叩き出そうという場面。ここで僕が演じる「町の男2」は、たったひとつのセリフを放つのだった。「とっとと町から出ていけ!」

 何しろセリフはたったひとつ。別に僕はロバート・デニーロでもアンソニー・ホプキンスでもないただの小学生だから、じっと立っている間も表情や背中で演技しようなどという野望があるわけはない。結局、僕の芝居どころといえば、このセリフたった一カ所だけということになる。となると、このセリフで何かしたくなるのが人情というもの。そこでリハーサルもかなり本格的になってきたある日、僕は持っていた台本を丸めて机を叩きながら叫んだのだった。「とっとと町から(ここで机を叩く)…出ていけ!」

 結局これはオーバーアクション(笑)ということで先生からやめろと言われ、僕はすっかりやる気を失った記憶がある。というのも…ちょっとこれには僕なりの「こだわり」があったのだ。

 僕が小学校の頃に集中的ないじめにあっていたという話は、以前、ドリュー・バリモア主演作25年目のキス(1999)の感想文などでも語っていたかと思う。その時に僕が実感していたことは、人の残酷さというものだった。ただし、それは僕をいじめていた当人のことではなかった。

 いじめっ子当人は当人で僕は腹が立っていたし、ひどい奴だと思ってもいた。いまだにこれっぽっちも許してなどいない。何年か前にクラス会に出た時、そいつが「僕のような子供は自分を表現するのがヘタなんだよ」とヘラヘラ笑いながら語っていたのを聞いて、危うくその場にあったテーブルをひっくり返しそうになった。そいつの腐った性根は、これっぽっちも改善しちゃいなかった。それ以来、クラス会には二度と行かないと心に決めた。

 しかし僕が当時痛切に感じていたのは、そんなことではなかった。そういう腐れ外道な奴ではなく、その周囲にいて直接手は下さないが助けもしない、ただただ傍観している連中の冷たさこそ身にしみていた。そしてこの連中は、いじめっ子が消えた段階で手のひらを返したように僕に暖かく接してきた。ある意味で、いじめていた奴よりこっちの方がどれだけタチが悪いか分からない。

 ちょっと高尚なことを言わせてもらえば、子供心にこの「町の男2」の役にはそういう「一般人」や「大衆」の持つ無責任な罪みたいなものが感じられなきゃいかんだろうと思った。だから机を叩いてヤクザみたいに恫喝することで、そんな連中の下劣さ愚かさを表現してみたかった。

 …な、わきゃ〜ないわな(笑)。ガキがそこまで考えるわけない。

 しかし今でもこの芝居とこのセリフのことを覚えているということは、確かにそこに何かあったことは間違いない。どこか無責任な「大衆」に対する、僕なりの何らかの気持ちはあったはずだ。

 

 さて、それからおよそ40年の歳月が経った。

 今年の3月11日、東北や関東を揺るがした大地震が起きて、僕ら日本人の日常はおそらくこの日以前とこの日以後とに分かれるくらい変わってしまったのではないかと思う。直接被災を受けていない人でも、元の日常に戻ったように思いながら、それと気づかない意識下では何かの変化を受けているのではないか。たぶんこの地震の影響が皆無の人などはいないだろうし、これ以後もこの地震の有形無形のインパクトは、僕らの暮らしに重くのしかかってくるように思う。

 だが僕が今、新聞を広げたりテレビをつけたりして目にするのは、何ともウンザリする現実だ。

 何から言えばいいのだろうか。地元の人々や警察、消防、自衛隊、医療関係者、海外の救援隊などなどの方々の活動には、正直いって頭が下がる。生活が根こそぎひっくり返ってしまった被災者の方々の状況には、ハッキリ言って語るべき言葉もない。今回は地震の後に津波、それが史上空前の大きさということでなかなか手が着かないところに来て、まったく余計な原発事故というとんでもない余計なオマケまでついてしまった。だから発生から1ヶ月以上経っているというのに、いまだに復旧がおぼつかないという。

 そんな被災地の方々やそこで復旧・復興のために働いている方々には、僕あたりがどうこう言えることがあろうはずがない。ここでそれらの方々について、アレコレ言うつもりはない。それは、僕が語るべきことではないだろう。

 だが、そんなふうに今も懸命に尽力している人々がいる一方で、外野ではあちこちで誹謗中傷非難罵倒が渦巻いている。

 東京電力の幹部による会見を見ていて我慢ならなかったのは、この幹部連中の言いぐさもどうしようもないモノながら、それにまるで「国民の代表」ヅラをして罵倒を浴びせているマスコミ連中の醜態だった。確かにあんな事態を引き起こした東電は悪い。会見での彼らの言動も情けない。こんなことになってしまった事の責任の大部分は、間違いなく東電にあるのは分かっている。

 しかしこのマスコミというゴロツキどもは、何の権利を持ってあそこで人を袋だたきにしているのか。それで被災地が少しでも救われるのか、事態が好転でもするのか。そもそもオマエらは、今回の地震での救出・復興に、少しでも役だったことがあるのだろうか。東電の幹部が自殺でもすれば、奴らは満足するのだろうか。

 何も言い返せない人間をサンドバッグのように叩くなんて、マトモな人間のやることじゃない。

 被災地にヘリを飛ばしクルマで乗り付けて、オマエらは何かの役に立っているのか。必要ないどころか邪魔じゃないのか。被災者に「今のお気持ちは?」とマイクを向けなきゃならないのか。

 その中ではNHKなどマシな方だが、それでも震災について専門家を集めての討論会みたいな場で、女性アナウンサーがこう言い出したのには恐れ入った。「で、風評被害はどうして起きるんでしょうか?」

 さすがにこれにはNHKの論説委員みたいな奴もたまりかねたか、「それはマスコミの報道によって起きる場合が多い」と言わずにはいられなかったようだ(笑)。こいつら自分のやっていることが分かっているのか。

 福島第一原発を何とか冷やそうと、自衛隊がヘリによる放水を繰り返していた時、「日刊ナントカ」が見出しで「笑止千万」だか「お粗末」だかと書き立てたことを忘れちゃいけない。自衛隊の命がけの放水に対して、オマエら「日刊ナントカ」は原子炉を冷ますために何かしたのか。一生懸命やっている人間に「笑止」とまで言えるオマエらなら、もちろんこの場合の正しい解決法を知っていたはずだよな。知っていなけりゃ、ここまで人をコケにはできないだろう。ならば、なぜオマエらが行って止めないのだ。

 そもそも原発がメルトダウンだの日本はもうダメだだの…何だかヤケに楽しそうじゃないか、「夕刊ナントカ」と「日刊ナントカ」は。そんなに日本が壊滅して嬉しいか。オマエら一体何がそんなに楽しくて仕方ないんだよ。

 政治家についてアレコレ言うのは、もうあんまりやりたくない。こいつらもウンザリすることには事欠かないが、こういう時は政治家をケナすのが一番ラクだ。しかし元はといえば、連中は我々の代表なはず。奴らが悪くてダメだとすれば、そもそも我々国民が悪くてダメなのだろう。 

 菅首相や政府の肩を持つ気はないが、ここでコキ下ろすつもりもない。段取りが悪かったかどうかは分からないが、伝え聞く話を真に受けると、どうも言動にも危うさが感じられる。前の薬害エイズの時だって一人でエエカッコしたのがミエミエで、実はあんまり好きではなかった。だから菅首相への世間の批判も、それなりに根拠はあるんだろう。そもそもウツワじゃなかった気もする。

 それでも与党も野党も、専門家のセンセイやら評論家やらも、周囲の人間がこうも次から次へと人ごとみたいに文句を言っているのを見ると、さすがに呆れる。与党の中で野党みたいなことを言ってる奴もいるからスゴイ。自分たちはまるで悪くない、関係ないとでもいうつもりだろうか。こんな時に誰かの足を引っ張って、少しでもいいポジションを得たいのか。シレッとした顔で文句ばかり言うなんて、どのツラ下げてできるんだ。少しは恥ずかしくないのか。

 正直言ってこれだけ未曾有の大災害で、どうしていいのか誰に判断できるのだろう。やり方はまずいのだろうが、批判する側にマトモなプランがあるのか。あったとして、それ通りすれば本当にうまくいくのか。オレは怪しいもんだと思うよ。

 話がコロコロ変わるというのも、こういう事態ならありそうな話だ。僕もいろんな場面でごくごく小規模ながら修羅場をくぐったことがある。そういう時には、何がどうなるのか分からない状況があることは理解できる。早く答えろと言われたって、即答できないことがあるくらいは分かっている。

 だから、少なくともどうすりゃいいのか分からないオレは、安易に批判できない。

 こういう時にはみんなもうちょっと前向きな視点で、それぞれの持ち場でやれることをやるべきだろう。少なくとも何かやっている人間に、ケチをつけてる場合じゃないはずだ。

 それなのに、政治家がジャンパーを着ただの着るのをやめただの、被災地に視察に行っただの行かなかっただの、東電幹部が辞任するだのしないだの、ACのCMがうるせえだの何だの…どうでもいいことでガタガタガタガタ。それで誰かが助かるのか、街が元通りになるのか、それとも放射能が消えるのか。そんなくだらないことに目くじら立てて何になるのか。何か立派なことでもやってるつもりか。そもそも何をやったってどっちに転んだって、みんなケチをつけるに決まってる。これじゃあガキが駄々こねてるのと同じだ。

 それから今になって「オレは危ないって分かってた」と得意顔で出てくる専門家やら市民活動家とやらも、大概にしてもらいたい。ホントに分かってたとして、オマエらどれだけ真剣にそれを訴えたんだ。言ってたことが現実になって、そんなに嬉しいか。得意の絶頂かい。後出しジャンケンだと言われても仕方ないんじゃないか。

 そして…これを言ったら大ヒンシュクだろうが、ここで言わなきゃフェアじゃないだろう。

 みんな東電にダマされた、ウソつかれた…とギャーギャー騒いでいる。安全だって言ったじゃないかってわめいている。確かにそう言った東電も悪い。それを言わせた国も悪かった。推進した自民党も悪かった。

 しかし、みんなそんなことホントに信じてたのか?

 こんな地震国に原発。危ないに決まっている。それをみんな知らなかったのか? 言われなきゃ分からないのか? どんだけ頭悪いんだ、あるいは子供なんだ? オレは前から知っていたぜ。

 どこかの歌い手がみんなウソだのダマされただのって反核ソングを歌ってるが、それこそ真っ赤なウソではないのか。そんなのは自分だけいい子になってるだけだろう。結局、絶対に言い返せない奴を袋叩きにしている愚劣なマスコミと変わりない。

 地震国に原発、危ないに決まってる。分からなかったら相当なパーだぜ。

 僕には分かっていた。危ないって分かっていた。常識で考えりゃすぐ分かる。なのに日常の便利さから、その危うさに目をつぶっていたのだ。電気をバンバン使える生活を、当たり前のこととして受け取っていたのだ。だってその方がラクだったから。そしてここまで何もなければ、何とかなると思っていた。原発はヤバイだなんて、それは言わない約束だった。

 そのせいで、今の被災地の惨状がある。

 ついでに言うと僕は学生時代の終わりに反核集会などにも顔を出したが、それはたった一度だし面白がって出ただけだ。そもそも僕は政治的イデオロギーが嫌いで、真面目に受け取っていなかった。その後は生活のためとはいえ、原発のパンフレットづくりの仕事などにも片足突っ込んだことがある。結局仕事にはならなかったが、そのために東海村まで行ったんだから同罪だ。

 東電が悪い、政府が悪い、自民党が悪い、政治家が悪い、あいつがこいつが悪い…。そうだ、その通り。そいつらがすべて悪いんだ。全部奴らのせいなんだ。奴らをもっと叩くべきだ。オレたちにはそうする権利がある。

 いや、違う。

 少なくとも、これだけはウソがつけない。これは全部、間違いなく他の誰でもないこの僕のせいなのだ。

 

 

 

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