私が子供だったころ

 When I Was a Little Child...

 


 

父の死

My Father Died

できればJ.S.バッハ「主イエス・キリストよ、私は汝の名を呼ぶ」Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ. BWV639(「惑星ソラリス」挿入曲)を聞きながらお読みください。

 

 2008年1月11日日曜日、午前10時6分、僕の父が永眠した。

 昨年の12月初め、突然具合が悪くなって入院。この年は2月に入院した後は まったく病院の世話になることがなかったため、このまま年を越せるかと思っていた矢先のことだった。それまでは、具合が悪くなっても「どうして悪くなった のか?」が比較的分かりやすかった父の病状だったが、この時はそれまでとは訳が違った。それは、確実に「衰え」がそこまで迫っていたことを感じさせた。

 それでも年末に退院ができて、まずはよかった…と胸をなで降ろしたのもつかの間。結局は夜もろくに眠れない状態で、約一週間の後、またもや病院に逆戻りしてしまう。思えばこれが、父の自宅における最後の日々だったのだ。

 結局、そのまま病院で年を越した父。今後の父の看護をどのように続けていけば いいのか…母と僕が考えあぐねていたちょうどその時、父の容態は著しく悪化。先週の水曜日に病院側のスタッフと今後のことについて相談をしたその翌日、朝 からいきなり病院から呼び出されるほどに急変した。

 それから連日一進一退を繰り返し、刻一刻と病状が変化していく中で、父が意識を保っている時間は極めて短くなっていった。

 僕が意識を保った状態の父を見たのは、土曜日の昼頃が最後。父は「苦しい」と 訴え(もはや父は声が出ない状態で、僕の問いに首をタテに振る…というかたちでの意思表示だった)、僕が慌てて医師や看護士の方々を呼んできたのだった。 その後は苦しそうな素振りを見せながら、父の意識は混濁した状態のままだった。

 そんな父はこの10年間、ずっと病気に苦しみ続けてきた。それまで大した病気もせず健康そのものの父だったが、1999年に突然降って湧いたように肺ガンの診断を受けたのだった。その年の12月に手術を受けて片肺の3分の2を切除したことについては、母の眠り感想文にほぼリアルタイムで書き記したので、ご存知の方も多いかもしれない。また、手術時のエピソードについては、ワンス&フォーエバー感想文でも触れている。

 その後も大腸ポリープ、気管への転移…など、次から次へと災いは相次ぎ、その 都度、父の身体は少しずつ衰えていった。それはわずかな変化であったため、僕らは同時進行的には気付いていなかったが、振り返ってみれば確かに徐々に衰え は進行していた。いや、おそらく僕らはそれに気付いていたのに気付きたくなかったし、出来る限り気付かぬふりをしていたのだろう。

 そして2005年の夏には決定的なことが起きる。ある朝、脳梗塞を起こして、 記憶や意識に乱れが生じるようになってしまったのだ。日によっては僕の知らない古い漢字の読み方を教えてくれるまで回復する時もあれば、まるで別人のよう になってしまう時もあった。そうなる直前には、僕のマックを使って住所録のデータベースをつくろうとするまで回復への意欲を見せていただけに、この脳梗塞 のアクシデントは残念でならない。このあたりの事情については、僕がエリザベスタウン感想文に書いた通りだ。

 そしてこれ以降、僕が父に「叱られる」こともあり得なくなってしまった。

 思い起こしてみれば、僕が父から息子として「叱られた」のは2002年後半頃、僕が遠距離恋愛の相手と先行きのない関係に溺れていたことを問い質されたのが最後のことだろうか。それでも父は、その件で決して僕を叱責したりはしなかった。

 僕も父には人並みに何度も叱られたし、叱られた時はかなり恐かった。しかし、 なぜか世間の「普通の父親」が「叱る」ような場面で、あまり声を荒げてモノをいうことはなかった。先に挙げた女性との一件の時もそうだったし、何度も転職 に転職を重ねて先行き不透明な状態を続けても、それについてとやかく言うことはただの一度もなかった。

 今から考えると、ひとつの会社に生涯勤め上げた父は、本音ではそれを「良し」 としてはいなかったのではないだろうか。実はまだ僕が子供の頃、父が独立を目論んでいたことがあったと聞いている。結果的に、それは実らぬ夢に終わった。 それゆえ、転職を繰り返す僕を叱責しなかったのだろうか。今となっては、その理由を知る術はない。

 そんな親不孝な僕だが、たった一度だけ父を喜ばせることができたかもしれな い。それは僕の名前が著者として書かれた本が出た時だ。後々知ったことだが、父はその本を持って親戚の家に行き、珍しく自慢したのだという。普段そんなこ とを一切しなかった父だけに、それは僕にとってひどく意外な行動に感じた。それはずっと不甲斐ないことばかり続けていた一人息子を、たった一度だけ自慢で きた瞬間だったのかもしれない。

 だがそんな父も、最後はろくに僕と口がきけぬほどに苦しんでいた。最後の数日間は先に述べたように、父の病状はほんの1時間ぐらいの間で目まぐるしく変化した。土曜日の午後、「苦しい」と訴えた後は意識が混濁し、意志のやりとりはできなくなった。

 その苦しげな表情は、家族である僕らに例えようもない苦痛を与えたが…こんなことを言っては不謹慎かもしれないが、一種の崇高さを感じさせもした。それは黒澤明の「赤ひげ」に登場する、藤原鎌足扮する重病患者の末期の様子を連想させた。父の人生の重みを感じさせた。

 そんな状態ながらも病状は一応安定したため、僕はどうしても済ませなければならない用事のために新宿へ出向いた。ところがすぐに「容態が急変したのですぐ病院へ帰れ」との知らせが僕の携帯に入り、僕は慌ててJR中央線に乗り込んだのだった。

 ここから先に書き記すことは、父の死という現実に直面した僕の抱いた、一種の妄想と受け止めていただいて結構だ。あるいは僕が創作したフィクションと思っていただいても構わない。ただ、僕は思った通りのことだけを書き留めさせていただく。

 「間に合わないかもしれない」と気が急いていた僕だが、僕の意に反して電車は 一駅ずつゆっくりと進んでいた。そんな中で、途中駅で乗り込んできた赤ちゃん連れの母親と祖母という組合せの乗客が、たまたま僕の隣に座った。その赤ちゃ んは(ピンクの服を着ていたのだから女の子だったのだろうか)電車に乗るのが不愉快だったのか火のついたように泣いていたが、なぜか自分を抱いた母親が座 席に座ったとたん、泣くのをピタリとやめたのだった。そして…しげしげと僕の顔を覗き込むように見つめ始めた。

 それは不思議な瞬間だった。赤ちゃんの母親も祖母も不思議に思ったのだろう。 僕と赤ちゃんの顔を交互に見つめていた。そして僕は…赤ちゃんの顔から目が離せなくなった。赤ちゃんは泣きもせず笑いもせず、ただただ食い入るように僕の 顔を見つめていた。僕もまた、赤ちゃんの目から視線を話せなくなった。僕にはまるでその赤ちゃんの目が、大人の表情を持っているように思えたのだ。

 そのうちこの3人の降りる駅が近付いてきたらしいが、赤ちゃんは僕をじっと凝 視するばかりだ。ところが最後の最後に、赤ちゃんは僕に手を振って「バイバイ」と一言告げた。これには赤ちゃんの母親も祖母も驚いたらしく、笑って電車を 降りていった。その時に僕はなぜか直感的に、父が赤ちゃんの姿を借りて別れを告げに来たと感じたのだった。

 たぶんこれは僕の妄想に過ぎないだろう。きっとそうに違いない。

 その日、僕が汗だくで病院に戻った時、まだ父の息は止まってはいなかった。しかし、その意識が戻ることは二度となかった。

 ともかく、終わった。父は今、これを書いている僕の目の前で、口をポッカリ開けて眠りについている。ここ数週間がウソのような、重荷を下ろしたような安らかな表情だ。僕は、これでよかったんだと思っている。

 親父、長い間お疲れさまでした。またいつか、必ず会いましょう。

 

 

2009年1月11日12時30分、病院霊安室にて記す。

 

 

 

 

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