私が子供だったころ

 When I Was a Little Child...

 


 

親戚

Relatives

 

 先日、父方の叔母が亡くなりました。

 この叔母は長らく心臓を患っていたんですが、いよいよ病いが重くなってつい最近入院したばかり。容態が悪いと聞いた僕の父が、自らも具合が良くないところをおして見舞いに行った時には、もうほとんど意識不明。その父が帰宅してすぐに、亡くなったとの連絡が届きました。

 葬儀は親戚の内々の者だけで…ということになり、葬祭場に二十名ばかりの近親者が集まりました。その中に僕もいたわけです。

 それにしても、最近は親戚もこんな場でしか集まらなくなりました。かつては正月ともなると伯父の家に親戚一同が集まったものです。それが今集まるのは、何年に一回かの親戚の葬儀の時くらい。でも、親戚というものはそんなものかもしれません。

 かく言う僕も、実は親戚には縁遠くなった人間の一人。かつて生意気盛りの時には一人父方の親戚に背を向けて、先に言ったような正月の集いにも行かなくなっていたんですね。

 というのも、僕がその正月の集いに顔を出した時、何とも言えない疎外感を感じていたからなんですけど。

 実は父方の親戚というのは、ほとんどソバ屋を営んでいるんですよね。ソバ屋一家(笑)。父の兄弟でソバ屋に関わっていないのは父だけ。なぜか父だけは家業を継がず、サラリーマンになったんです。そのせいか、なぜか我が家は親戚の中でも妙に浮いた存在だったんですね。

 僕を除く従兄弟は、みんな一緒に育ったようなもの。僕だけが少し距離を置いていた。だから、たまの正月に遊びに行っても、何となく疎外感を感じたんだと思います。そして親戚というものは、それでなくてもどこか煩わしさを伴うもの。親しみがないところに煩わしさを感じたんでは、僕も近寄りたくなくなるわけです。おまけに反抗期…僕はいつしか親戚とは縁遠くなっていったんですね。

 それがある程度の年齢になると、そうも言ってられなくなる。そこに冠婚葬祭も相次ぐと言うわけで、しばしば親戚の集まる場に行かざるを得なくなってきた。

 愕然としたのは、そこで親戚の人の人物関係や名前が全く分からなくなっていたことなんですよ。

 いくら何でも社会人としてこれではいかん。しかし昨日や今日覚えようったって今さらそう覚えられるわけもない。しかも、そう思い立つのはたまに冠婚葬祭があった時だけ。それで覚えよう覚えようと焦りながら、覚えられない日々が長く続いたんです。

 そのうち僕の両親も年老いてきて、誰にも聞けなくなってくる恐れが出てきた。僕は本当にマズいと思い始めたんです。

 僕がマックを初めて手に入れたのがちょうどその頃でした。

 僕は家系図のデータベース・ソフトを手に入れ、父や母の記憶と昔の写真を頼りに、自分の親戚のデータベースを作り始めました。すると、いろいろ調べていくうちに、数々のドラマも改めて知ることになりました。そして、イヤが上にも自分がその親戚の一員であるということも…。

 まだ自分が半ズボンをはいていた頃の写真を見つめていると、楽しいことも世話になったこともあったと思い出されてくるんですよ。

 実はそれでも一時、自分は親戚のしがらみを離れて、別の場に行って暮らそうかと思ったことがあったんです。まぁ、それはある女と暮らしたいと思っていた時で、その時には自分の親とも大揉めしました。その女とうちの親戚や親たちとは、どう考えても同じ場にいれるはずがないと思ったんですね。その時、当然ながらうちの親から、親戚の絆はそう簡単に解き放つことは出来ないと言われたものです。

 今回、葬祭場で親戚と顔を合わせて、この親の言葉を改めて思い出しました。

 やはり自分はどう考えてもこの一族の人間です。どんなに煩わしいことがあっても、どんなに自分の流儀と合わないことがあっても、どうしたって自分は彼らの一部なのです。

 そして付け加えるなら、僕が一度は一緒に暮らそうと思った女も、また自分の家族の絆からは解き放たれることはないのでしょう。そして、それは相容れないものなのかもしれません。

 僕は棺の中で花に埋もれた叔母の顔を久しぶりに見て、それを実感しました。半ズボンの頃からの…いや、もっと前から築かれていた絆というものは、僕個人を超えたところにある。好きや嫌いじゃない。例え回り道をしてみても、そこで疎外感や違和感を感じても、消え去ることはないのでしょうね。

 

(写真は集合した父方の従兄弟たち。
矢印が筆者。1962年夏、東京・秋葉原にて撮影。)

 

 

 

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